将軍足利義政は無能だったのか

父の暗殺、兄の病死により足利義政は将軍になりました。

通説では優柔不断で政治的意欲に乏しく応仁の乱を傍観し、東山の山荘で遊興に耽ったとされます。

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足利義政 略年表

1436年、足利義政は義教の次男として生まれました。

義教が嘉吉の乱により、暗殺されると跡を継いだのが兄義勝でしたが、病により夭折します。

幕府の運営は管領の細川勝元、畠山持国と侍所所司の山名宗全が握っていました。

出来事
1436年6代将軍足利義教の次男として誕生
1441年父義教が暗殺される
1443年兄義勝(7代将軍)が病死
1449年8代将軍に就任
1455年日野富子と結婚
1459年第一子が誕生するも早世
1464年弟・義尋(義視)を還俗させ将軍後継者にする
1465年嫡子・義尚が誕生
1466年文正の政変が起り、義視と対立
1467年応仁の乱が起こる
1473年義尚に将軍職を譲り隠居
1476年花の御所が焼失
1477年応仁の乱が終結
1482年東山山荘に慈照寺を建立する
1485年義尚と対立し出家
1489年義尚が病没し政務に復帰する
1490年55歳で死去

応仁の乱を引き起こす

義政は父義教とは違い、おとなしい性格でした。

京都で飢饉や疫病が蔓延していても、物見遊山や酒宴を開いて政治は側近に任せるだけで政治に対し関心を失っていました。

1466年紀伊に逃れていた畠山義就が山名宗全の支援を受けて上洛します。宗全は義就を幕府に復帰させるため、義政と話を付けていました。

義就と対立していた政長を管領から罷免し、義就に畠山家の家督を継がせます。

政長は管領を辞めさせられ、家督も奪われてしまい、自邸に櫓や垣を作り抵抗します。

政長派の細川勝元は義政に対し、義就討伐を義政に上申しますが、すでに宗全らにより義就派となっていたため、上申を受け入れませんでした。

打つ手を失くした政長は自邸を焼き払い、上御霊社に布陣します。

義就は上御霊社の南側から攻め、宗全も義就に援軍を送ります。

敗戦を悟った政長は上御霊社に火を放ち、勝元の屋敷に逃げ込みました。

義政は畠山家の私戦とみなし、諸大名に加勢することを禁じていました。勝元は義政の命令を守り政長に加勢しませんでしたが、宗全は義就に援軍を送った結果、政長は敗走することになりました。

義就の勝利に終わった上御霊社合戦は応仁の乱の発端となる戦いだったのです。

東山文化を花開かせた功績

足利義政は東山山荘を中心とし、公家や武家、禅宗の文化をもとに庶民文化を融合させ東山文化を作り出します。

東山文化を代表する画家雪舟は「秋冬山水図」という水墨画を描きました。雪舟は備前国出身の禅僧で明に渡り、水墨画を学びました。

茶器の名品として「九十九茄子」が知られています。中国の南宋〜元の時代の茶入れで元々、3代将軍足利義満が所有していました。足利家に代々伝わり、義政の時代に但馬守護の山名政豊に譲渡され、松永久秀、織田信長に伝わります。

龍安寺石庭は石と白砂で山水を表現する「枯れ山水」で作庭された庭園です。

1465年、義政は山荘の造営を開始し、1483年に移り住んで東山殿と呼ばれます。

義政の死後、慈照寺と称されます。東求堂は書院造り最古の建築物として知られています。書院の同仁斎は四畳半の畳みが敷き詰められ、「わび・さび」を特長とする東山文化の象徴でもあります。

将軍の権威を発揮できず、大乱を招いてしまいました義政ですが、東山文化を後世に残すことができた面では評価できる将軍でしょう。

平和な時代なら、名君として平穏な一生を過ごせた将軍だったのかもしれません。

日本史
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