応仁の乱で没落した名家 細川氏

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細川氏の没落

応仁の乱で東軍を率いていた細川勝元は乱を終結させることなく1473年に病死します。このとき8歳だった嫡子の政元が跡を継ぎます。

細川政元は明応の政変で足利義材を廃し、堀越公方・足利政知の子・足利義澄を11代将軍として擁立します。

これ以降、細川氏が管領をほぼ独占し専制政治を行うようになります。

管領を排出した細川家は当主が代々左京大夫を称し、唐名の京兆尹から細川京兆家と呼ばれます。

政元は修験道に傾倒し、妻帯せず3人の養子を迎えます。

管領 細川政元と3人の養子

関白・九条政基の子澄之と阿波守護・細川氏から澄元、細川野州家の高国を養子にします。

澄之の補佐役であった、香西元長は澄之が廃されることへの不安から家督が澄元に譲られる前に政元を亡き者にしようとします。

1507年6月、政元は自邸の湯殿で行水をしていたところを香西元長らによって暗殺されます。享年42でした。

政元を暗殺した香西元長は、細川澄元の屋敷を襲撃しますが澄元の家臣であった三好之長が機転をきかせ、澄元を近江の甲賀に逃します。

実力で澄元を追放した澄之が、細川京兆家の家督を継ぐことになります。

近江に逃れていた澄元は政元のもうひとりの養子の高国の支援を受けて、澄之の邸宅を襲撃します。澄之は自害し、香西元長も討死にします。

澄元は上洛し、足利義澄から細川家の家督相続と摂津、丹波、讃岐、土佐の守護職を与えられます。

細川家の家督を正式に継いだ澄元ですが、養父の政元が追放していた足利義材が周防の守護・大内義興の支援を受けて、復職を図ろうと画策します。

さらに、澄元と対立しつつあった同じ養子の細川高国も足利義材に同調しました。

1508年、足利義材が和泉の堺に上陸し、入京を果たします。抵抗することの不利を悟った将軍足利義澄と細川澄元は近江の六角高頼を頼り、落ち延びます。

澄元は三好之長とともに反攻を試みますが、戦で三好之長を失います。澄元自身も阿波に逃れ、ほどなく病没します。

これにより、高国が幕府の実権を握ると、対立した足利義材を追放し、足利義澄の子・義晴を将軍にします。

この時点で、高国が幕府の実権を握ります。

1527年、三好元長は阿波に逼塞していた澄元の子・晴元を奉じて上洛し、高国を京都から追放します。晴元と高国による覇権争いは続きますが、1533年ついに晴元が高国を滅ぼします。

その後、晴元は対立した三好元長を討ちますが、元長の子の三好長慶に追放されてしまいます。

長慶の死後、晴元の子・昭元は足利義昭を奉じて上洛した織田信長に従います。

日本史
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