応仁の乱で没落した名家 京極氏と六角氏

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京極氏と六角氏

京極氏と六角氏はもともと、同じ佐々木一族でした。

それぞれ近江の江北と江南に割拠し、近江一国における覇権を争うようになります。

佐々木一族の嫡流は六角氏であり、近江の守護職と佐々木氏の惣領職を幕府から認められていました。

応仁の乱が起きると、江北の京極持清は東軍について京極氏の勢力拡大を目指します。江南の六角氏は京極氏に対抗するため、西軍に付きます。

近江守護だった六角高頼が西軍についたことで幕府は六角高頼の従兄弟にあたる六角政堯を六角氏の家督とし、近江守護としますが、六角政堯には江南を支配する力は無く、幕府は京極持清に近江守護と佐々木氏の惣領職を認めます。

1470年京極持清が没し、近江国内は争乱が拡大します。持清3男の政経が東軍につくと、持清の孫・高清が叔父にあたる政光の支援を受けて西軍につき、一族が分裂します。

1478年六角高頼は幕府によって赦免されます。近江守護に任命されるも幕府に従順ではなく比叡山延暦寺の荘園を横領し、独自に近江を領国化していきます。

1487年六角高頼は延暦寺の訴えにより、将軍足利義尚の追討を受けます。高頼は甲賀に逃れ、抵抗を続けますが、義尚が陣没したため幕府軍は撤退します。

1489年にも10代将軍となった足利義材によって、征討をうけます。このとき高頼は江北の京極高清から支援を受け、自らは伊賀に逃げ抵抗を続けます。

1492年、将軍足利義材によって高頼の近江守護職は奪われ、六角政堯の養子である六角虎千代に与えられることになります。しかし、1493年に起きた明応の政変によって、義材が管領細川政元に廃位されたため、後ろ盾を失った六角虎千代は失脚します。こののち、六角氏一族の山内就綱が六角氏の家督を継ぎ、延暦寺と結んで高頼に対抗します。

高頼は美濃の斎藤妙純の支援を受けて、江南の支配下に置きます。1495年に再び、近江守護に補任されます。

江北では京極高清と政経・材宗父子が争っていました。政経が足利義材の勘気に触れたため、高清に六角氏の家督が認められますが明応の政変で足利義材が廃位されたことで、高清も廃され、政経に家督が渡ります。

高清は舅にあたる斎藤妙純の支援を受け、京極政経を国外に追放し、政経の子の材宗とも和睦し自害に追い込み、江北は高清によって統一されます。

高清には二人の息子がいました。長男高広と次男高吉です。この二人が家督争いをした結果、高広を推す浅井亮政が江北を手中にし戦国大名化します。

京極高清・高吉父子は近江を追放され、出雲隠岐は尼子氏に飛騨は三木氏に奪われてしまい、すべての領国を失います。

六角氏は管領細川氏に通じて勢力を拡大した高頼の子定頼、義賢の時代に全盛期を迎えます。しかし、義賢の子義治が重臣を暗殺したことで家中の動揺が広がり、観音寺騒動と呼ばれる争いに発展し、結果六角氏は弱体化します。

1568年に浅井亮政の孫の浅井長政と同盟した織田信長が足利義昭を奉じ、上洛したとき六角義賢、義治父子は信長に抵抗しますが、敗れ滅亡します。

浅井長政も1573年に居城の小谷城を信長に攻められ、近江一国は信長の支配下におかれることになります。

日本史
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