宣教師ルイスフロイスの見た戦国武将

16世紀後半に来日したフロイスは来日後の布教史をまとめた「日本史」を執筆しました。フロイスは大変な記録魔で、極めて詳細に記録していました。執筆には一日10時間かけることもあり、同時代の一級史料として評価されています。

「日本史」は1549年から1594年までの期間を記録しています。好奇心旺盛なフロイスは戦国武将だけでなく、多くの出来事に関心を持ち書き留めていました。

宣教師としての偏見や日本の習俗に対する誤解もありましたが、同時代の日本を知る上で貴重な史料です。

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「日本史」の執筆者

1563年ルイスフロイスはカトリックの男子修道会のイエズス会から派遣され、肥前に上陸します。

以降、フロイスは日本の多くの要人と面会し「日本史」を著します。

織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、フロイスは信長に謁見します。

フロイスによると信長は朝早くに起床し、酒を好まず食を節するなど健康的な生活を送っていました。好戦的で名誉心に富んでいて、家臣の忠言は聞かず、王侯に対しても軽蔑した態度を取り、人々は絶対君主に対するように服従したと残していました。

また、信長は理性的で明晰な判断能力があり、戦局が激しくなっても、忍耐強く戦い抜いたこと。信長は稀に見る優れた人物であり、天下人にふさわしいと評価しています。

また好奇心旺盛なフロイスは戦国武将のことだけでなく、多くの出来事に関心を持ち書き留めたため、同時代の一級史料として評価されています。

完訳フロイス日本史(2(織田信長篇 2)) 信長とフロイス (中公文庫) [ ルイス・フロイス ]

キリスト教を保護した武将

将軍・足利義輝

豊後の大友宗麟は1551年にザビエルと引見して以来、キリスト教を保護してきました。1578年には洗礼を受け、ドン・フランシスコの名を与えられます。

室町幕府13代将軍・足利義輝はキリスト教に理解のある人物でした。1560年に上洛したイエズス会のガスパル・ヴィレラと面会し京都でのキリスト教の布教を許可しました。

義輝が三好三人衆により暗殺されると、キリスト教は禁止され、関係者は京都から追放されます。

大友宗麟

豊後の大名・大友宗麟は、1551年にザビエルと引見して以来、キリスト教を保護してきました。1578年には洗礼を受け、ドン・フランシスコの名を与えられ、4年後にはローマ法王のもとに天正遣欧使節を派遣しました。

宗麟はポルトガル人を手厚く保護し、領民にも食料や衣服を与えるなど、慈悲深い領主として高く評価されています。

また、宣教師を通して軍事物資を手に入れるなど、便宜を図られていました。

秀吉の家臣

高山右近

高山右近はキリシタン大名として知られています。洗礼名はジュスト。右近は領内の人々にキリスト教への改宗は強要しませんでしたが、多くの領民は仏教から改宗しました。

右近の居城の高槻城は京都から近く、フロイスは度々訪れ教会でミサを行いました。

右近は出陣の際に、京都の神父に対しデウスの加護を祈ってほしいと依頼していました。

黒田官兵衛

黒田官兵衛もキリシタンでした。キリスト教に改宗したのは1584年のことでした。

「日本史」によると官兵衛は秀吉に仕え、多忙でしたがフロイスから布教を推進する役割を期待され、多くの人を改宗させました。

フロイスの官兵衛に対する評価も高く、官兵衛を通して秀吉に要望を伝えたりしました。

小西行長

小西行長はキリスト教に入信し、アゴスチイノという洗礼名を与えられます。行長は1587年の肥後国人一揆の平定に貢献し、恩賞として肥後3郡(宇土、益城、八代)を秀吉から与えられます。

その後、天草を併呑した行長はイエズス会を積極的に支援します。天草には神父が派遣され、教会も建てられ、多数のキリシタンが住んでいました。

蒲生氏郷

蒲生氏郷は1585年に大坂でキリスト教に入信します。オルガンティノからレオンという洗礼名を与えられます。2年後にバテレン追放令が発布されると、氏郷は表面的にはキリスト教を棄教したふりをしたと言われています。

1590年氏郷は会津へ移封となると、領民たちに改宗を勧めました。現在の会津若松市内には氏郷の命で建てられた3ヶ所の教会の跡が残っています。

神学校を建てるなど氏郷の信仰心は厚く、オルガンティノは氏郷のことを「優れた知恵と万人に対する寛大さ、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」とローマ教皇に報告したほどでした。

キリスト教と敵対した武将

フロイスはキリスト教に理解を示した武将には高い評価を与えましたが、信仰を妨げる武将には厳しい評価を下しています。

毛利元就

毛利元就が本拠とした安芸国は浄土真宗の信仰が根付いていました。周防では大内氏がキリスト教を認めていましたが、大内氏の滅亡後、周防・長門は元就が支配するようになり、キリスト教の布教が難しくなります。

フロイスは元就のことは評価しませんでしたが、子の秀包は久留米城主となり、大友宗麟の娘を妻にしていたこともあり、熱心なキリシタンとしてフロイスから評価されています。

長宗我部元親

1574年に元親は土佐を統一し、土佐国司・一条兼定を豊後に追放します。翌年、兼定はキリスト教に入信します。

兼定は土佐を再び手に入れた暁には、土佐をキリシタンの国にする決意を持っていたといいます。1575年に大友氏の援助を受け土佐に出陣した兼定は、四万十川の戦いで大敗を喫します。土佐をキリシタンの国にするという兼定の夢も消えます。

元親は布教を阻む存在となったため、フロイスから酷評されます。

日本史
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