毛利元就の強さは有能な家臣団の賜物か?

中国地方を統一し、1代で巨大な家臣団を組織した毛利元就

元々は大内氏の支配下にありましたが、中国地方の国人勢力をまとめ、大勢力を築きます。

毛利の家臣団は国人領主の連合体でしたが、元就の智略と両川体制により結束できました。

毛利氏と国人領主たちはなぜ結束できたのか、紹介していきたいと思います。

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毛利氏の祖先

そもそも毛利氏の祖先は鎌倉時代に幕府の政所別当を務めた、大江広元と言われています。

相模国毛利荘が名字の由来で、南北朝期に安芸国吉田荘に移り、本拠に定めました。

当初、大内氏の配下の一国人に過ぎませんでした。

最初は大内氏の傘下

最初は大内氏の傘下にありました。

1516年、毛利氏当主の毛利興元が亡くなると、子・幸若丸が跡を継ぎますが1523年に9歳で亡くなったため、元就が当主になります。

元就を支えた有能な家臣団は国衆と呼ばれます。毛利氏と主従関係はありませんが、半物(所領の安堵を行う下達文書)を発給すると同時に自身の裁判権を行使する領域支配を展開し、家中を形成する自立した勢力のことです。

毛利氏は国人領主連合の盟主的存在で、元々は同じ一族であった庶子に分割し、毛利総領家が庶子を統括する支配体制を整えました。

尼子氏や大内氏など周辺の強大な勢力に対抗するため、毛利氏は庶子・国衆の盟主となり独自の支配体制を構築します。

元就は庶子を従属化させることに成功します。毛利氏の元で庶子の家臣化が進み、領国の拡大に伴い、滅亡した尼子氏や大内氏の旧臣を登用します。

強い共同体を形成し、家臣団を統率する

毛利氏は庶子や周辺の国人を家臣化し、共同体の盟主となります。元就は小早川氏、吉川氏に子息を送り込みます。

1512年に安芸国の国衆は一揆の盟約状を交わし、元就の兄・興元を盟主として結集することを誓います。これ以前は、総領家と庶子とは対等に近い関係にありましたが、これにより総領家が盟主の地位にありました。

1516年に興元が亡くなると子息・幸若丸が家督を継ぎますが、不慮の死を迎えます。

後継者候補は元就と弟・元綱でした。元綱は所領の名前から、相合元綱と称していました。

毛利氏の家督継承には家臣らの影響力が及んでおり、尼子氏から後継者を出そうと考える家人もいました。

尼子氏から後継者を迎えると、毛利家を乗っ取られる危険性から結局、元就の家督相続が認められます。

国人から戦国大名へ

元就は1550年に有力家臣の井上元兼を粛清します。家中での絶対的な支配権を確立します。毛利氏の軍事動員権、行政命令権、警察裁判権を家臣たちに起請文を提出させ認めさせます。

その後、元就は陶晴賢を討伐し、1557年周防・長門を掌中に収めます。

元就は安芸・備後の国衆らに対し、狼藉・勝手な陣払いを禁止するなど軍隊の規律に関する誓約を行います。

一国人領主に過ぎなかった毛利氏が広大な領域を支配するには、多くの人材を必要としました。元就は婚姻や養子縁組で有能な家臣の獲得に奔走し、周辺の国衆を配下に収めます。

宗家を支えた両川体制

毛利宗家を支えたのは小早川、吉川の「両川体制」です。

小早川氏は当主の繁平が盲目であることから、元就の3男・隆景が継ぎます。隆景は主に山陽方面を侵攻し、毛利氏の勢力を拡大します。毛利家のブレーンとして活躍し、小早川家の水軍を統率し、厳島合戦では陶晴賢を壊滅させます。

1582年の本能寺の変の際には、秀吉と和睦し、以降、豊臣政権家では五大老として重用されます。主に政治の面で活躍し、毛利宗家の当主・輝元には天下を狙わずに、領国の支配に専念するように助言しました。

吉川元春は安芸国の名族の吉川氏を継承します。当主の吉川興経は毛利氏に対し、異心がないことを誓約し、元春を迎い入れます。

武闘派の元春は山陰方面を担当し、出雲、伯耆、因幡の平定に尽力します。

1557年、元就は家督を嫡男の隆元に譲ります。毛利家の存続を第一とし、吉川・小早川が協力することで、毛利家中を守り立てる必要性を説きました。

このように毛利氏の発展は、武勇に優れた吉川元春、智略に優れた小早川隆景の二人が毛利宗家を支えていることで成り立っています。

日本史
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