応仁の乱の対立の構図についてまとめてみた

戦国時代の始まりと言われる応仁の乱。京を舞台に11年間続いたが、あまりにも複雑な戦だったため、歴史好きにとっても全容がつかみにくい。

そこで、自分なりに応仁の乱についてまとめてみることにしました。

同じ姓を持つ一族同士が敵味方に分かれ、誰が何のために戦ったのか?かんたんにまとめてみましたのでどうぞ。

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対立の構図1:将軍後継問題

足利将軍家系図

まず、将軍の後継問題が起きます。

8代将軍足利義政は1464年に3歳年下の異母弟、義視を次期将軍とすることに決めます。翌年には実子の義尚が生まれたため、義視は義尚が成長するまでの中継ぎとし、義政は大御所としての立場から実権を握ろうとします。

この時、幕府の有力者は義視の将軍就任に賛意を示したことから、将軍家には後継問題は存在しないはずでした。

義政腹心の伊勢貞親は義視に謀反の疑いがあると、義政に訴えます。

訴えられた義視の方は細川勝元に支援を求め、山名宗全と共に義政に対し讒言者として貞親を処分するように迫ります。結果、貞親は京を追われ伊勢へと逃亡します。

応仁の乱が起こると義政は西軍討伐の総大将に義視を任じますが、義政が腹心の貞親を幕政へ復帰させます。

義視は兄義政と絶縁し、山名宗全に付き西幕府の将軍として義政と対抗します。

1473年、宗全が没し、2ヶ月後に勝元が没したことを契機に応仁の乱が収束への兆しを見せると12月、義政は将軍職を義尚に譲ります。その後義政は文化的活動に傾倒するようになります。

1489年、義尚は将軍の命令に従わない近江の六角高頼討伐の陣中で没しました。義政は義尚に子がいなかったことから義視の嫡男の義稙を10代将軍に就任させます。

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対立の構図2:幕府内の勢力争い(細川勝元と山名宗全)

細川勝元の父持之は、管領として6代将軍義教を支えていました。義教が嘉吉の乱で死ぬと、義勝を7代将軍として擁立するとともに、赤松満祐討伐を成功させ、幕府内での実権を持つことができました。

1442年、持之は43歳で病没します。細川家の家督は13歳の勝元に受け継がれますが、幕府の実権は畠山持国に奪われてしまいます。

1445年、16歳で管領に就任した勝元は持国から幕府の実権を奪おうと画策します。まず山名宗全を縁戚になり、関係を強化します。赤松氏追討後の領土を山名氏が継承していたため、細川氏の領国と合わせ畿内から西国の過半を版図としました。

持国は義教に罷免されていた守護を復権させ、恩義を売ることで自身の勢力基盤を固めようとしていました。嘉吉の乱を起こした赤松氏が復権し、山名氏の領国が減られる可能性もあったため、宗全は勝元と組むことで共通の敵を排除しようとしました。

足利義政は細川と山名の仲に亀裂を生じさせようとし、赤松氏の幕府への帰参を許可します。それに反抗的な態度を示した山名宗全を討伐しようとすると、勝元の仲介により赤松氏の帰参は見送られ宗全が隠居することで事態は収まりました。

勝元は赤松氏が旧領に復帰すれば宗全の勢力を削ぐことができると判断し、赤松一族の政則を保護し、応仁の乱が起こると、勝元の援助を受けた政則は旧領を回復でき、山名氏の勢力を奪うことに成功しました。

将軍義政が畠山氏や斯波氏の家督争いに介入していくうちに、勝元の対抗勢力として宗全を中核とする一派が形成されます。そして、畠山氏の争いに巻き込まれ、応仁の乱が起き長期化することになります。

山名氏の領国の播磨、備中、美作が東軍に奪われ、次男の是豊が東軍に属することになり、宗全は徐々に戦意を失っていき、1473年3月に没します。その2ヶ月後には東軍の細川勝元も没します。

対立の構図3:斯波家の家督争い

斯波氏系図

斯波氏の歴代当主は足利将軍家と同じ「義」を諱に使用し、足利一門と同格であると示します。1452年、当主の義健が18歳で病没すると、一族の義敏が当主に迎えられます。

越前守護代の甲斐氏は義敏の実父持種と対立関係にあり、義敏の当主就任に反対します。義政は義敏の当主就任を認めますが、関東への出陣を命じながらも内紛を口実に実行しようとしない義敏を隠居させ、1461年、渋川義鏡の子義廉を斯波氏の当主とします。

古河公方の足利成氏討伐のため義鏡は関東へ下向していましたが、義廉を当主にすることで斯波氏の軍事力を利用し成氏を討伐しようとしていました。関東管領の上杉氏が義鏡に対し非協力的だったため、義鏡の関東における存在感が薄れ、そのため斯波氏の家督を継いだ義廉の必然性が低くなり、義敏の当主復帰への機運が高まります。

1466年7月に義廉の幕府出仕停止が命じられ、翌月には義敏が当主に復帰することになります。

文正の政変により、伊勢貞親が失脚すると貞親と関係の深い義敏は連座し、当主の座を奪われ義廉が当主に復活します。

斯波義廉は応仁の乱が起こると宗全と共に西軍に属すると西幕府の管領に就任します。

対立の構図4:畠山家の内紛

畠山氏系図

畠山義就の父持国は6代将軍足利義教から遠ざけられ、畠山氏の家督を弟の持永に譲ることを強要されます。嘉吉の乱により義教が殺害された混乱に乗じ、持永から家督を奪い、7代将軍義勝、8代将軍義政に仕えます。

持国はもう一人の弟の持富に家督を譲ることを公表していましたが、1448年実子の義就を後継者に指名し、家臣団が分裂することになります。

持富の死後、反義就派は遺児の弥三郎を後継に擁立し、細川勝元、山名宗全も畠山氏の分裂を狙い弥三郎派を支援します。

持国は隠居を強要され、弥三郎が家督を継ぎますが足利義政は勝元の影響下にある弥三郎が畠山氏を相続することで、勝元の勢力が拡大することを恐れ、義就を支援します。

義政の支援で1455年に義就は家督を継ぎますが、大和で武力抗争を続ける義就に対し義政は嫌悪感を抱き、弥三郎の死後その弟の政長に家督を譲るように命じます。

1460年、義就は河内の嶽山城の立て篭り、将軍義政に従わない意思がないことを示しますが、勝元の支援を受けた政長が1463年に嶽山城は陥落し、義就は紀伊、吉野へと逃亡します。

1464年に家督相続を公認された政長は勝元から管領職を譲られます。

1467年義就は山名宗全や斯波義廉の協力を得て上洛し、畠山政長に家督と邸の明け渡しを要求します。

家督と管領職を奪われた政長は自邸に火を放ち、上御霊社にて挙兵します。このことがきっかけで応仁の乱が始まることになるのです。

日本史
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