全国で起こった守護大名の反乱(1390年〜1441年)について

戦国時代の幕開けとなった「享徳の乱」と「応仁の乱」。この2つの大乱はどのように起こったのか。室町幕府と守護大名がどのように対立してきたのかをまとめ、幕府衰退の道を探ります。

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室町幕府VS鎌倉府・有力守護大名

室町幕府は3代将軍・足利義満の時代に南北朝合一を果たし、幕府による支配は安定していきます。

将軍の専制は守護の反発につながり、有力な大内氏や山名氏は将軍によって追討されることになります。

また鎌倉府を本拠とする鎌倉公方・足利家も京の将軍家と対立するようになり、同じ足利一門でありながら、初代将軍・足利尊氏の長男・義詮の子孫が継いでいた将軍家と義詮の弟・基氏の子孫が継いでいた鎌倉公方家は将軍になることはできず、立場的に幕府から独立することも出来なかったため、将軍家に対し不満を持つようになります。

土岐康行の乱(1390年)

美濃源氏の土岐氏は尾張、伊勢、美濃3ヶ国の守護を任されていました。土岐康行の養父・頼康(康行の父・頼雄の兄)が1388年に死去すると、将軍・義満は康行に伊勢、美濃の相続を許しますが、尾張を満貞(康行の弟)に与えてしまいます。

これに強く反発したのが詮直(康行の従兄弟)であり、京から尾張に下向してきた満貞の軍勢を敗走させます。

京に戻った詮直は義満に康行と詮直の謀反を訴え、義満は同族の土岐頼忠・頼益に康行討伐を命じ、美濃で戦闘になり康行は敗れるのです。

明徳の乱(1391年)

山名氏は新田一族の源氏で時氏の代で足利尊氏に従い、因幡、伯耆、丹波、丹後、美作の守護となっていました。

時氏の死後、長男・師義は丹後、伯耆、次男・義理は紀伊、3男・氏冬は因幡、4男・氏清は丹波、山城、和泉、5男・時義は美作、但馬、備後。師義の3男・満幸は播磨をそれぞれ治めます。

守護守護国備考
師義丹後、伯耆時氏の長男
義理紀伊時氏の次男
氏冬因幡時氏の3男
氏清丹波、山城、和泉時氏の4男
時義美作、但馬、備後時氏の5男
満幸播磨師義の3男

一族で11ヶ国の守護となっていため、六分一殿と呼ばれていました。

3代将軍・足利義満は山名氏の内紛に乗じ、その勢力を削ごうとします。

山名師義が1376年に死去すると、弟・時義が惣領となり、時義の死後、嫡男・時熙が継ぎ、これに時義の兄・氏清、師義の3男・満幸が不満を示すようになります。

足利義満は生前の時義が将軍に対し、不遜であったこと、跡を継いだ時熙も将軍を軽視する態度であったため、氏清と満幸に時熙討伐を命じます。

時熙は敗れ、戦功として氏清には但馬、山城、満幸には伯耆の守護職が与えられます。

時熙を追放した後の山名氏では氏清と満幸が力を持ち、足利義満はこの二人を排除しようとします。

義満は満幸を出雲守護から解任し京都から追放してしまいます。

満幸は氏清と紀伊守護・義理を説得し、幕府に対し挙兵し、氏清は大義名分を得るため南朝に降り、錦の御旗を下賜されます。

1391年12月19日、丹後と河内の代官より氏清、満幸の謀反が伝わります。

同年12月25日、義満は軍評定を開き、山名氏との対決を決意します。

幕府軍は主力の5000騎を内野におき、義満と馬廻5000騎は堀川の一色邸で待機していました。

山名氏清の軍3000は堺から、満幸の軍2000騎は丹波から京に進軍します。12月30日早朝、氏清の弟・義数は幕府方の大内義弘と衝突します。

義弘と義数の一騎打ちにより、義数は討死にします。

満幸の軍勢2000騎が内野へ突入し、大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突し、氏清は優勢でしたが、一色氏と斯波義重の幕府軍が加勢し、氏清は敗走します。

氏清は落ち延びようとするが、一色詮範、満範父子に討ち取られてしまいます。

11ヶ国の守護領国を持っていた山名氏は明徳の乱後に3ヶ国まで減らされてしまいます。

守護国明徳の乱以前明徳の乱以後
山城山名氏清畠山基国
丹波山名氏清細川頼元
丹後山名満幸一色満範
美作山名義理赤松義則
和泉山名氏清大内義弘
紀伊山名義理大内義弘
但馬山名氏清山名時熙
因幡山名氏重山名氏家
伯耆山名満幸山名氏之
隠岐山名満幸京極高詮
出雲山名満幸京極高詮

応永の乱(1399年)

大内氏は周防・長門を中心に西国に拠点を持つ有力な守護でした。当主の義弘は明徳の乱で幕府方として山名氏を討ち、義満との関係も良好でした。

1397年、足利義満は諸大名に鹿苑寺造営のための人数の供出を求めます。

しかし、義弘のみはこれを拒否し、義満の不興を買ってしまいます。

同年末に義弘は少弐氏討伐を幕府より命じられ、弟・満弘が討死する犠牲を払っても恩賞が与えられず、裏では少弐氏と菊地氏に義弘を討伐するように命じていたとの噂もあり、幕府に対し不信感を持っていました。

義弘は和泉、紀伊の守護職が剥奪されるとの噂を信じ、鎌倉公方・足利満兼と密約を交わしました。

美濃の土岐詮直、楠木氏、菊地氏ら南朝勢力と連絡を取り、挙兵を促します。

1399年大内義弘は和泉堺の浦に軍勢を率い、家臣の平井新左衛門を入洛させます。義満は義弘に上洛を促しますがこれを拒否したため、禅僧の絶海中津を使者として送りました。

義弘は絶海中津と会談し、絶海中津は将軍家に謝罪するように説きます。

義弘は今までの将軍家への功績を述べ、少弐氏との戦いでは討死した弟・満弘の子への恩賞がないことへの不満を述べます。

将軍・義満は上洛しなければ行賞できないと説き、重ねて上洛を要求しましたが、大内義弘は既に、関東公方・足利満兼と同心していると伝え、絶海中津は説得を諦め帰京します。

交渉が決裂した報告を受けた足利義満は10月28日に細川頼元、京極高詮、赤松義則の先発隊を和泉へ送り、自身は馬廻2000騎を率い東寺に陣を構えます。

11月14日、管領・畠山基国と斯波義将が率いる幕府主力3万騎が和泉へ進軍しました。

大内軍は堺に18町の城を築き、義弘は討死覚悟で籠城します。幕府軍は3万騎で堺を包囲し、海上も100艘の船で封鎖し、11月19日幕府軍が総攻撃を仕掛けました。

畠山勢が北側から細川、赤松勢は南側から六角、京極勢は東側から攻めます。

12月21日幕府軍は火攻めの準備をし、早朝に総攻撃をかけます。

大内義弘は項羽の討死の故事を引き、後代に残るような最期を遂げます。

義弘は管領・畠山基国の嫡子、満家の陣に切り掛かるが奮戦の末討ち取られてしまうのです。

上杉禅秀の乱(1416〜1417年)

初代将軍・足利尊氏は第4子の基氏を鎌倉へ下向させ、関東10ヶ国を統治させていました。

この鎌倉府の長官を鎌倉公方と言い、足利基氏の子孫が代々世襲していました。鎌倉公方を補佐する関東管領は上杉氏が担っていました。基氏の孫・満兼が死去すると子の持氏が鎌倉公方となりました。

1411年、関東管領・上杉憲定が失脚すると上杉氏憲が関東管領に就任します。この氏憲の法名を禅秀と言います。

上杉氏憲(禅秀)は持氏の叔父・満隆、弟・持仲に接近し若い持氏に代わり鎌倉府の実権を握ろうとします。

1415年に氏憲は関東管領を更迭され、代わりに上杉憲基(憲定の子)が関東管領に就任します。怒った氏憲は関東諸将を集め、鎌倉公方・足利持氏に対し挙兵します。

駿河守護・今川範政から京都に上杉氏憲挙兵の一報が伝わり、幕府内では評定の結果、氏憲討伐のための軍勢を送り、足利持氏救援に向かうこととなりました。

今川、小笠原、佐竹、宇都宮の諸将は幕府方として上杉禅秀を攻め、鎌倉雪ノ下で自害したことで乱は収束しました。

永享の乱(1438〜1439年)

鎌倉公方・足利持氏は幕府将軍・足利義教が就任すると、これに反発し、元号が正長から永享に変わっても正長を使い続け、幕府に反抗していました。

さらに関東管領・上杉憲実とも対立し、上杉定頼、顕直や一色直兼を重用し、独裁色を強めていました。

1438年(永享10年)6月に持氏は嫡子・賢王丸を幕府に無断で元服させます。

上杉憲実は領国の上野国平井城に逃げ、持氏は憲実討伐の軍を差し向け、自身も武蔵国府中に陣を構えます。憲実は京都の幕府に救援を要請しました。

幕府は今川範忠、小笠原政康、上杉持房、教朝に憲実救援を命じ、朝廷権威を利用し錦御旗を掲げ進軍します。

9月27日今川勢は持氏方の軍勢を破り、上杉持房は箱根、小笠原政康は平井城を攻める持氏方の軍勢をそれぞれ打ち破ります。憲実も平井城を出て、一色軍を破ります。

劣勢になった持氏は鎌倉へ落ちようとする途中、憲実の家宰・長尾忠政に出くわし、将軍へ恭順するように説得され、鎌倉の永安寺に入りました。

11月4日持氏は称名寺に入り出家しますが、将軍・足利義教の命を受けた憲実により、1439年2月10日自害させられました。

持氏の遺児は難を逃れ、下総の結城氏に擁立され、結城合戦が起こります。

結城合戦(1440〜1441年)

永享の乱後、将軍・足利義教は実子を鎌倉へ下向させ、鎌倉公方としようとしますが、持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子が持氏の遺児の春王丸、安王丸、永寿王丸を擁立し居城の結城城で挙兵しました。

幕府は上杉清方、今川範忠、小笠原政康と関東の国人衆を派遣し、永享12年(1440年)7月29日に結城城を包囲しました。

嘉吉元年(1441年)4月16日、結城城は落城し、氏朝・持朝は討死し、春王丸、安王丸は足利義教の命により殺害され、永寿王丸は京都に送られました。

嘉吉の乱(1441年)

足利義教は結城合戦に勝利し、関東で起きた乱は収束しました。

嘉吉元年(1441年)6月24日播磨守護・赤松満祐の子・教康は結城合戦の祝勝として自邸に義教と諸大名を招きました。

この宴で室町幕府将軍・足利義教は武者数人に襲われ、首を取られてしまいます。

同じく酒宴に参加していた山名煕貴は即死、京極高数と大内持世は重傷を負い後日死去、細川持春は片腕を切り落とされ、酒宴は血の海となりました。

将軍を暗殺した赤松満祐はすぐに幕府軍が攻めてくると思い、自邸に引きこもり自害するつもりでしたが、夜になっても幕府軍が攻めてこないため、領国に帰り抵抗することにします。

将軍の首を槍先に掲げ、京を退去するが妨害する大名はいませんでした。

翌25日に管領・細川持之は評定を開き、義教の嫡子・千也茶丸(後の足利義勝)を次期将軍とすることを決めます。

領国は帰った赤松氏討伐のため、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊が但馬、伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻します。

7月に山名教清が伯耆から美作へ侵入し、美作は山名氏に制圧されました。

細川持常、赤松貞村ら大手軍は、摂津の西宮まで進出し、25日に赤松教康は幕府軍に夜襲をかけますが、同士討ちが起き退却しました。

大手軍の山名持豊は、7月28日にようやく京を発し、但馬へ向かいます。

摂津の大手軍は8月19日に、赤松教康の陣を攻撃し、教康を後退させ播磨へ侵攻します。持豊は4500騎を以って但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、赤松義雅と攻防があったが、30日には義雅を敗走させます。

9月1日、持豊の軍勢は守護所の坂本城を包囲し、満祐は3日に坂本城を捨て城山城へ移り籠城します。

9日に義雅が幕府軍に降伏し播磨の国人達も赤松氏を見捨てました。

10日に、幕府軍は総攻撃を掛け、満祐は弟・則繁を城から逃し、切腹し果てました。

日本史
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